刀剣乱舞-ONLINE-(とうらぶ)のプレイ日記です。個人的に記録をとったり、素人ながら実際の刀を見に行ったり。審神者向け福岡観光案内も。

『肥後の名刀「延寿」「同田貫」ゆかりの地をめぐるいい感じツアー』に参加してきました

すっごく遅くなりましたが、昨年11月13日に、肥後古代の森協議会主催のバスツアー、『肥後の名刀「延寿」「同田貫」ゆかりの地をめぐるいい感じツアー』に参加してきましたので、そのレポのようなものを書きます。

いい感じツアーしおりとねんたぬ

このツアーは、Twitterで回ってきたCコース(今回参加した「延寿」「同田貫」ゆかりの地ツアー)だけの画像で知りました。
一応オリジナルである肥後古代の森協議会のFacebookページを見て検討し、「延寿」「同田貫」ゆかりの地ツアーに応募しました。古墳好きとしてはBコースなんでしょうが、割と行ってたところが多かったのと、鞠智城(後述)が見たかったので……。

この応募の前後、そして当選の知らせが届く前後にいろいろあって行くか悩んだ(てっきり落選したと思って東京へ行こうとしていた)のですが、当選したのでこっちに専念することに。

ツアー中はTwitterで勝手にハッシュタグ「#延寿同田貫ツアー」というのを作ってゆるく実況してました。実況してたらいいことありましたv

以下、旅の振り返り。刀の写真はありません。ご飯画像があります。

地図


今回巡った場所の地図はこちら。菊池の同田貫屋敷跡はちょっと自信がないのでプロットしてません。

気になる人は今回のツアープランを考えた鞠智城温故創生館の館長さんがガイドとして3月まで月一でやっていらっしゃったツアー「館長と歩く同田貫屋敷跡」にぜひ参加して……ほしかったのですが、館長さんが昨年度で定年を迎えられたそうで……遅くて本当にすみません。

JR熊本駅西口

延寿太郎屋敷跡(八坂神社)

菊池神社歴史館

歴史公園鞠智城・温故創生館

きくすいの里

歴史博物館こころピア

同田貫碑・同田貫屋敷跡



旅の詳細


8:30にJR熊本駅西口集合ということで、新幹線で博多駅から熊本まで移動。8時過ぎに熊本到着。ツアーの方に代金を渡して熊本駅西口あたりで時間をつぶしました。
西口の観光案内所には玉名のラーメンマップや、後で活躍することになる菊池一族についてのイケメンが表紙のパンフレット「菊池一族のススメ」が置いてありました。熊本に寄った際はもらっていくといいかもしれません。

延寿太郎屋敷跡(八坂神社)


8:45に集合して、旅のしおりと資料・パンフが沢山入ったバッグを受け取ってバスに乗り込みました。
9時にバスが出発し、添乗員さん、ガイドで今回のプランを企画した温故創生館の館長さんと菊池市の方の挨拶があり、一路菊池へ。

道が混んでいたようで、予定約30分オーバーの10:25に近くのコミュニティセンターで降車し、歩いて延寿太郎屋敷跡である八坂神社に行きました。
八坂神社(延寿太郎屋敷跡)

滞在予定30分の予定でしたが、予定行程より遅れていたので、由来書の看板の前で延寿についてマキで説明。
延寿太郎屋敷跡看板
延寿太郎屋敷跡由来書
延寿太郎は元々来派の刀工で、鎌倉時代に菊池氏10代武房(蒙古襲来絵詞に「すごく強い」と書かれたとか)の時代に肥後に連れてこられて、「延寿」を名乗るようになったとのこと。

そして時代が下って南北朝時代、13代武重が宮方として足利尊氏と箱根・竹ノ下の戦いで千の兵を率いてしんがりを務めることになった際、三千の兵を相手に、周囲に生えていた竹と短刀で即席の槍を作らせ「槍衾(竹ぶすま)」という戦法を編み出して勝利。その後肥後に帰って延寿の刀工に槍を量産させることになったそうです。
八坂神社の沿革

神社にお参りして、石碑や看板などを見るなどした後、バスに戻って次の目的地である菊池神社へ向かいました。

菊池神社歴史館


またバスにしばらく乗り、少しだけ坂を登って菊池神社に到着。
菊池神社
ちょうど七五三シーズンだったので、お子さん連れの参拝客で賑わっていました。この写真の左の方には菊人形(確か主神である菊池武時公、武重公、武光公だったと思う)も展示されていました。

宮司さんから「菊池槍の条件」という菊池槍についてのよくまとまった解説プリントを頂いて、神社横にある「菊池神社歴史館」を宮司さんと創生館館長さんの解説つきで見学させていただきました。

歴史館は大正8年設立。菊池氏24代、約500年の歴史に関する資料などを展示されていました。
先の熊本地震で展示品が落ちたそうで、壁のかけらが展示ケースのところどころに落ちていました。

菊池は砂鉄が取れ、水も豊か(この「砂鉄が取れる」「水も豊富」という点はこの後の滞在先でも度々出てくるキーワード)なのだそうで、製鉄が盛んに行われていたとのこと。
メインの菊池氏24代についてのコーナーのほかに、菊池千本槍のコーナーがあり、その一角に15振ほど(ガイド役の創生館の館長さん曰く「いつもより多い」)展示されていました。

「菊池槍」は槍といっても、日本号や蜻蛉切、その他一般にイメージされる槍とは違い、短刀の形を残しながら茎をのばした独特の形状をしています(上にも書いたように元が「竹」と「短刀」で作ったものだからか)。
そして、目立つのは前述のプリント「菊池槍の条件」でも一番に書かれている、鵜の首造り。どの菊池槍も刀身の中ほどからえぐれているような独特の形状をしていました。
どんなものかイメージがわかないという方は、今年5月に菊池で行われた菊池一族と延寿鍛冶展の記事に、そこで展示されていた菊池槍の写真を載せているので、そちらも参考にしてください。

宮司さん曰く、「槍を作った方が安く、使いどころが多かった」とのこと。
他にも「千本槍には銘がないものが多い」「刃渡りが長いものが大将級が使ったもの、短いものは一般兵が使ったもの(ざっくり訳)」「清正が玉名で打たせるようになる」など興味深いお話を沢山伺うことができました。

歴史館を見学させていただいたあと、少しだけ時間があったので神社にお参りをして、いそいで御朱印をいただきました。
押しているのに色々ご迷惑をおかけしすみませんでした。

鞠智城温故創生館


菊池神社から少し下山して再びバスにのり移動。
次の目的地は国指定史跡の古代山城、鞠智城(きくちじょう)。続・日本百名城認定おめでとうございます。
鞠智城

到着したらすぐ、敷地内の温故創生館の映像解説室にて、今回のガイド役を務めてくださった温故創生館館長さんによる「鞠智城と同田貫」というタイトルのがっつり作られたパワポによる説明がありました(レジュメも配布されたのですが、これ本当にすごい)。

内容は鉄製産の歴史と鞠智城で製鉄が行われていた証拠となる施設跡や出土品の話、鞠智城以外の古代山城での鉄製産についての話、そして次に行くことになる同田貫屋敷跡と鞠智城の関連についての話など、これが本当に色々知的好奇心を刺激される内容でした。
個人的に面白かったのは、漆工房の話。
製鉄関連遺物が出土するところに漆工房もあった痕跡があるという話で、製鉄と漆工芸に何らかの関連があるのではないか、ということ。

パワポによる説明が終わったら温故創生館にあった同田貫の模造刀と、実際の製鉄関連の出土品のコーナーを見学させていただきました(他の参加者の皆さんが展示の前に集まっていたので写真はないです)。

同田貫屋敷跡(菊池)


鞠智城を出たら、バスで鞠智城近くで最近再発見された同田貫屋敷跡へ向かいました。
本当は歩いていくプランだったようですが、時間が押していたのでバスで行くことになりました。

バスを降りて畑に入る細い道を歩くこと数分、畑とその奥の小高いところが同田貫の屋敷跡だったところ、だそうです。
菊池同田貫屋敷跡

この同田貫の屋敷跡は1966年の写真はあるものの、正確な場所はわからなくなっていたのだそうです。
しかし、最近菊池市の文化財保護委員の方の指摘で、撮影された屋敷跡に生えていた柿の木と同じ木がある(ちょうど上の写真中央)と判明し、正確な場所がわかったそうです。

同田貫の屋敷があった頃は畑の部分も同じ高さだったそうで、実際に沢山の鉄くずや焼けた赤い土が出土しているとのこと。今もこのあたりは「ずだぬき」と呼ばれているそうです(田を貫くから「ずだぬく」と呼ばれているのではないか、とのこと)。
近くには砂鉄が取れる「さるみず」と呼ばれる場所があり、炭は雑木から作り、水は溜め池からとったのだろう、とのこと。

ここについては2017年4~5月に行われた「菊池一族と延寿鍛冶」展のパンフレットの1つ「菊池一族と延寿鍛治 歴史の軌跡を紐解く」に創生館館長さんの話と写真つきで書いてあるので、興味のある方はぜひ(通販あります)。

きくすいの里(昼食)


同田貫跡を見学した後は再びバスに乗り、昼食は菊水IC近くの「きくすいの里」にて。

「きくすいの里」の料理(蒸し物)
メインは120度の蒸気で蒸し上げた蒸し料理。三色餃子にしんじょに野菜、他にもいろいろ。全部うまうまでした。

もう一つは肉!ちょっと甘目でこれまた美味しかったです。
「きくすいの里」の料理(肉の陶板焼き)

更に花丸視聴者なら反応してしまう、うどん(第5話放映直後でした)!
奥のみかんと佃煮類が本当においしくてご飯(この2週間前から新米に変わったらしい)が進む進む。佃煮はおみやげに買って帰りました!
「きくすいの里」の料理(うどんとみかん、佃煮類)


同田貫屋敷跡(玉名)


再びバスに乗り込むと、南下して新玉名駅を通過。次の目的地、玉名の同田貫屋敷跡へ向かいました。
同田貫屋敷跡の碑

ここで、待機してくださっていた玉名市の方による解説がスタート。

この同田貫碑は近代になって建てられたもので、碑の後ろの方にあるお墓も幕末に建てられた物なのだそうです。
廃刀令が出た時点でこの周辺に刀鍛冶は12軒ほどあったそうですが、現在は残っていない、とのこと。
同田貫屋敷跡はこの石碑周辺南北200m(石碑の前を通る国道208号線は屋敷を跨ぐように作られた)で、幕末には刀のほかに鉄砲の生産も行ったそう。なんでも熊本城下で作るより安く、品質は同等だったとか。

同田貫碑の下の銘文には「同田貫兜割リ正国」と書いてあるのですが……(これについては後ほどこころピアについて)。
同田貫碑の下の銘文

ちなみにここでちょっとしたサプライズがあったのですが、詳細は秘密ということで。

玉名市立歴史博物館こころピア


そして、最後の目的地、玉名市歴史博物館こころピアへ。
玉名市立歴史博物館こころピア

ここからは同田貫で有名なあの学芸員さんが解説。30分間同田貫と、関連する色々なことをお話してくださいました。

メモを取る手が間に合わなかったので、読み取れるとこを一部ご紹介します。
歴史に疎いので、人名とかはググって調べたのですが、間違っていること書いていたらごめんなさい。

-----
  • 玉名は鉄製品を輸出していたが、その輸出品として同田貫もある。
  • 玉名の藩士で、天覧兜割りにも出場した上田馬之助(リンクはWikipedia)を一押ししたい。
  • 刀が「実戦が無い無用の長物」だった江戸時代、代々の山田浅右衛門が実際に刀で死体(8代将軍吉宗の時代に褒美として死体を貰う権利が与えられた)を切って、業物一覧という表を作っていた。その一覧で刀が評価されていた。浅右衛門は切れ味で刀をみていた。
  • 「兜割りをしたのは同田貫」という資料はあるものの、「兜割りに用いられた同田貫が正国である」と書いた一次資料はない(先ほど見た同田貫碑には「同田貫正国が兜割りをした」と書いてあるが、後代に建てられたものなので、一次資料とはいえない)。
  • 正国は複数いる(色々メモには書いてるけど、自信がないので書かない)。
    ここのメモにあるキーワードと違うけれど複数いる話は1月にあった「同田貫とその時代」展の展示解説でも出てくる
  • 同田貫は一度刀を打たなくったが、9代目の正勝が中興の祖。鹿児島へ行き、延寿も弟子入りした正幸へ弟子入りする。正勝・延寿は水心子のところにも弟子入りしている。
  • 10代目の宗廣は宗の字を師匠から貰っている。作風は鹿児島風ではなく、正国の作に近づけようとしたのではないか。宗廣の作品は大きいのから小さいのまで残っている。
  • 11代目宗春の残っている作品は小さく、刃文が波打っているタイプが多い。

-----

とこのあたりでガイド役の創生館館長さんから「30分立ちっぱなしで皆さん疲れていらっしゃるでしょうから(※御歳を召した方もいらっしゃった)」とストップがかかり、残りの時間は自由時間に。

時間はあっという間に過ぎて、帰る時間に。
帰りのバスの車内で結構盛り上がったじゃんけん大会がありました。見事に2回とも早々に敗退しましたw 缶バッジなどが景品だったようです。
そして熊本駅で解散しました。

本当に感想が遅くて申し訳ありませんが、とても楽しかったです。
次回あれば他の方におすすめしたいです!



ちなみに文中にもリンク貼りましたが、このツアーの話に関連して、今年の1月こころピアで開催された「同田貫とその時代」展と、5月菊池夢美術館で開催された菊池一族祭り「菊池一族と延寿鍛冶」展の記事も同時にアップしています。
合わせて読むと、同田貫や延寿、菊池槍などについてよりわかるかもしれません(両方とも実際の刀剣の写真があります)。
関連記事

COMMENTS

0 Comments

There are no comments yet.

REPLY

Leave a reply